誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

あの日あの時に感じた「あの感じ」をここに書き留めたいと思いつつ「あの感じ」とはドノヨウナモノなのかを今ここで身体感覚として再現してそれをそのまま説明するのはとても難しいことなのだとずいぶん長い間感じていたのだけれど昨日にふと思った・・あの日あの時に感じた「あの感じ」はまさに井上哲玄老師のおっしゃる「コノモノの有り様に親しむ感じ」と正真正銘同じフィーリングなのだ・・当時は都心のビルの三階に住んでいてその日はとても気持ちの良いお天気で仕事の締め切りなどからも解放されていてちょっと近所に一人でお昼ご飯を食べに行こうとしていたビルの三階なのでエレベーターは使ったり使わなかったりなのだけどその日は何の躊躇もなく階段を駆け下りて薄暗いエントランスからお日様に照らされて明るいビルの前の道に出た・・その一瞬だった「ものすごい幸福感」に包まれた・・ものすごい幸福感というのは後になってから思ったことなのでその一瞬に起こったことを正確に言い当てているわけではないのだけれど別の言い方をするならば目の前の風景や音や日差しの感触が「ものすごくクリア」だったとも言える・・近所の玄関先に置かれた植物やクリーニング屋の看板や道行く人たちが全部クリアに感じられてぼくはぼくの存在を勘定にいれないままそこに存在しているというような天国的と言ってもよさそうなそんな夢の中のようなお芝居の舞台にいるような瑞々しくてちょっと大げさなほどに明るい場所にいた・・このような記憶ならばきっと誰にでも一度や二度じゃなくて「ある」と思う・・その場面と記憶は何か特別に象徴的なことと結びついているとは限らないので通常の思いの中では「取るに足りない」と感じてしまうことなのだけれどぼくがここに書き留めたいと思うあの日あの時に感じた「あの感じ」はその取るに足りない場面とともにキラキラとした幸福感として懐かしく切なく今もここで感じられるもので「その感じ」と哲玄老師のおっしゃる「コノモノの有り様に親しむ感じ」が実は同じものだったという静かな透明感のある気付きは今日ここに明るい三月のお日様を感じながらのんびりとMacのキーボードを叩いているぼくにとってかけがえのない人生の恩寵なのだよ自分。