誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

思考は催眠性のある蜃気楼・・気がつくとそれにすっぽり包まれている・・いや違う・・催眠性のある蜃気楼に包まれている時にはその蜃気楼の中にいることにも気がついていない・・ということは・・それに「気がついた」時にはその「外側」に出たということになるのだけれど・・話はそれほど簡単じゃない・・催眠性のある蜃気楼の森は何重にも何重にも奥深く重なっているからだ・・わかったようなことを書いてはいるが・・もちろんぼくは今、思考の森にいてこれを書いている・・だってそれはどうしょうもなく・・思考が思考の外に出るのは不可能だからだ・・であれば・・救いは無く・・どれだけ気づいても気づいてもこの現実の夢から覚めるということは・・あり得ない・・夢は夢でいいじゃないかとも思う・・それ以外の選択肢はないのだったらサッサと諦めてしまったらいい・・もしも夜の眠りの夢の中で「これは夢だ!」と気づいたら、少なくとも深刻さは薄れて行く・・目の前の夢を夢として楽しむことができるなら素敵なことだ・・でもこの現実の夢は暑かったり寒かったり痛かったりお腹がすいたりするのが厄介だ・・そこでぼくたちは現実的にならざるを得ないと教え込まれる・・恐怖が主人になる・・まったく神様は酷い仕組みを拵えたものだよと嘆きたくもなる・・思考の中にこれに答えられる真っ当な道筋は無い・・なんぼ考えても考えても矛盾は深まるばかりだよ・・それは究極的にこの人生=いのちを呪うのか祝福するのかという選択に行き着く・・「今」は祝福できたとしても、明日もまた祝福できるとは限らない・・その選択は一瞬ごとにぼくたちに問われ続けている・・もちろん基本的には感謝だよ愛だよ祝福だよ・・そんなことは知っている(分かってるよ!と思考は思考する)・・こんなふうにしてぼくたちはまた催眠性のある蜃気楼の森の奥深くへと足を踏み入れて行く・・どれくらい奥深くに入ってしまっているかはどれくらい深刻になっているかということで計測することができる・・だから今のところ・・「呪いか?祝福か?」みたいな深刻な問いには深刻に答えないというのが正解のようだ・・だいいち神様はそんなことを問うているわけでもなさそうだ・・いや・・どうなんだろう「分からない」・・分からなくてもいいんだよ〜自分。