誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

風景の中にいるという表現はよくあるけれどもその本当の意味は「自分の身体も含めて風景の中」にいるということなのでこの感じに静かに留まっているとだんだんと自他の境界線が曖昧になって来るのでいよいよここからが日向ぼっこの本番だ・・猫やお婆ちゃんは「それ」を愉しんでいる・・ある質問者が禅のマスターに坐禅のご利益は?と問うたそうなするとマスターはこのように答えた・・自分の見解を止めて「こうやって」いたら色も形も感触もいきなりその事実に触れていて明確ですねこの明確さの定着によって自己に決着が付くのです・・まさに「虚心平気」である・・しかしながら坐禅や瞑想のこの感じを自我の言葉で言い表すと「つまんない」ということになりここでぼくたちは考え始める迷い始める落ち着かなくなる・・けれども本当の本当に「このもの」の本質=いのちに触れている時には退屈どころか至福の遊園地だよということが(ようやく)実感できるようになってきたのは本当に有り難いことだもちろん四六時中実感しているわけではないのだけれども理由の無い至福というのは雲の向こうや地球の裏側でいつも輝いているお日様のようなものだ・・さて「風景」というのは美しい言葉だと改めて思う、目に映るそれを心に映すそれをなぜ風景と呼んだのだろう「空と風 kuu to fuu」こんな名前の気の利いた立ち飲みでもあればいいね自分。