誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

いいんだよ〜よくなくなくてもいいんだよ〜・・机のはしっこに合わせて置いているパーテーションのようなものが机のはしっこにわずかに接触していてタイピングのたびにカタカタと音を立てるのが耳障りなのでぼくはタイピングを中断して立ち上りパーテーションをちょいと持ち上げてほんの少し・・ほんの少しだけ机のはしっこから離す・・ぼくは水平垂直フェチなので机の角との美しい水平垂直の具合も目で見てしっかりと確かめる・・よしOKだ・・許容範囲だ・・直角定規や水平器を持ち出すまでもなく子どもの頃から鍛えに鍛えたこの水平垂直感覚だけは髪の毛一本ほどの狂いもないはずであると思ってはいるが本当の本当の水平垂直はこの世界にはあり得ない点と線の一致である・・なにごとも許容範囲が大切ではある・・しかしここで・・さて許容範囲を決めているのは誰なのだろうと考えるのだけれど・・世の中の諸々は水平垂直というほどにも明快ではなくて・・その答えは当然のこととして自分の思考の許容範囲つまりは許容の限界点であって・・その許容の限界点は同じ人物の思考であっても毎日毎瞬にふわふわと変化している・・すべてのすべてを許容できる天使のような心境もあればすべてのすべてを否定する強情な思い込みを自分や他人の中に見つけて愕然としてしまうこともある・・どっちみち明確な基準などというものは存在しない・・世の中には「常識」という幻想の基準を根拠にするタチの悪い独善者がいるが・・それはまさに「みっともない自分の姿」でもあるのかも知れない・・のだというほどのデリカシーに気付いた時に・・ぼくは無条件許容ということを考え始めた・・それは無条件の許容、あるいは受容によってぼくたちは何処に運ばれて行くのだろうかというちょっとした実験なのだけれど・・もちろんその実験を生身の人間であるぼくが100%完全に実行することは不可能なのだということにも気付かされる・・しかし・・この探求の面白さはここからが本番のようなもので・・無条件の許容を完全には実行することのできない(訳ありの生身の健気な)自分自身にも無条件の許容を与える(いったい誰が誰に与えるのだろう?)ことで・・ぼくたちは広々とした涼やかな静寂にいざなわれるのである・・きっと置き去りにされた自我思考は「駄目だよ〜そっちは危険だよ〜どえらいことになっちゃうよ〜」と叫んでいることだろうね・・むふふ・・自我思考には超えることの出来ない許容範囲があるからね・・いいんだよ〜よくなくなくてもいいんだよ〜自分。