誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

ああ、こおいうお爺ちゃんが身近にいて縁側で日向ぼっこしたりお茶を飲んだり自然の中を歩いたり時にはちょっと酒でも飲むかということになったり・・そんなことがふつうに出来たらすごくすこーく楽しいな〜と思えるような・・直にお会いしてお話を聴くことができた井上哲玄老師はそんなお爺ちゃんだった、なんと82歳というけれどエネルギーが静かに充実していて大きな山の麓に抱かれるようでもありました・・さてこのような機会に導かれたぼくは「そこ」から何を学んだのかと振り返ると(よく言われることなのだけれど)何かを付け足したわけでは全然なくて・・そのまったくの真逆で・・自分の「考えや思いや知識」といったものを一切合切全部きれいさっぱり無条件に放り投げて残る「このもの」こそが元々すでにいつも今も完成しているいのちの本質機能であるということだ・・なーんだなるほど!これのこと?分かってしまえば幼稚園児にも理解できるというか幼稚園児こそが当たり前に「感じている生命感」であって簡単なことなのだけれども簡単で当たり前過ぎるがゆえに「大きな盲点」になっていることも良く分かる・・お釈迦様が約六年間の難行苦行をやり尽くした後に「これは全部無駄だった」と結論して、そこでようやく唯一残された盲点に気が付いた・・その気付きこそがお釈迦様の悟りであり「それ」は今も「ここ」に受け継がれているのだと確証を持って話された井上哲玄老師の存在に触れたことは・・これはもう信じるとか信じないとかのレベルを超越した目の前の真実なのであってなんぼ疑い深くて頑固で頭でっかちな馬鹿者であっても「なるほど!」と心のしくみの謎々を決着せざるを得ない体験でありました・・心こそ心まよわす心にはよく心して心ゆるすな・・つい有頂天になるお調子者に気を付けて進みなさいよ自分。