誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

見たのか見えたのか(それは同時)・・聴いたのか聴こえたのか(それは同時)・・感じたのか感じられたのか(それは同時)・・自分自身の本質でありながらもよーく感じてみると境界線のあり得無い「このもの=いのち」は、世界の様子とともに共振共鳴して活動している「空なるもの」である・・井上哲玄老師の禅の教えに触れる機会を得てぼくの感覚はこのような「場」に導かれたこれは無条件の癒しの場でもあり「空意識」というキーワードに置き換えることのできるものだ・・空意識はさまざまな表現で語られているのだけれどもなんと村上春樹さんも「それ」について書いているので備忘録として引用させていただく・・

僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。―中略―走っている時に頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体でないものだ。僕らはそのような茫漠とした入れ物の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。

・・「ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。」・・前半の描写ももちろん素敵なのだけれどぼくが本当に感心してしまったのはこの結びの一行でここには語るに語れない「非二元の視点」が込められている(これ以上に言葉を付け足すことはできないので味わうのみだ)・・で、ここで通常の私(自我/マインド)は不服を訴え始める・・分かった、そこまでは分かったけれど「こんなに面白くもないもの」に意識を向けていて何の得があるのだ??・・これについて井上哲玄老師はごくシンプルにこのように述べられている「このもの(生命活動の基礎)を学ばずして、どんな学び(応用編)も無いですよ」・・さらには光奈広大という方が自身のブログにこのように書かれている「I AM(=空意識)にくつろぐというのは、その原初からのビジョンが展開されるのを許す、ということを意味する――。」・・なるほど、なるほどである。ぼくたちはついつい都合の良い応用編だけを学ぼうとしてものごとの順序を間違えて本質的なことを成し得ずに思考の底なし沼に嵌ってしまうのだから注意しないといけないのだよ自分。