誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

茶の湯のことを調べていたら「茶の湯は自分自身の「生命のもと」を看るためのものである。我欲に捕われないあるがままのもとの自分を見つめる。それが千利休の茶の精神です」という一文に目が留まった・・「茶禅一味」という言葉もあるように「茶」と「禅」は深いところでつながっているというよりもまったく同じ扇子の表裏であってぼくの興味の中心は無条件の「空」であるところの「生命のもとを看る」というところにある・・ここで使われている「看る」という漢字表記も絶妙で生命の内奥を静かに手に取るように見つめて行くというニュアンスがうまく表れている・・さて改めて思うのだけれど「生命のもと」を看るという行為(それは行為とも言えない行為)がなぜにこのように興味深くこころ楽しいのだろうとついついその意味やご利益を探ってしまうのだけれどこのような「心の働き癖」こそが無用であることを知るところに禅や茶の湯の真髄がある・・禅や茶の湯の真髄を素人の馬鹿者が訳知り顔で語るというのも滑稽なのでここでお題をお得意の「日向ぼっこ」に変えてみるが日向ぼっこの真髄ももちろんまったく同じである日向ぼっこに意味やご利益を求めても「そこ」には何も無い・・この人生の憧れとして今の今の今ここで空っぽなものでありたい無条件の無色透明の空っぽなものでありたい・・あなたはすでに「それ」であって「それ」でしかあり得ないと哲玄老師はおっしゃって、一方でほぼ日の糸井さんは「通気性」というキーワードが書かれたポスターを「心の町内会」の掲示板に貼付けていると書いていた・・愛するべき心優しい賢い人たちがみんな同じことを伝えようとしているように感じるんだよ自分。