誰にも会わない話

耳のするどい生きものになってうっとりと宇宙を聴いている感じ。( *_* )v

今にして思えばずいぶんと頑張り屋さんだった「ぼく」がお亡くなりになったので残された僕はなんだかふわふわとしてカタチの無いものになってしまった・・しかし、僕とは俺とは私とは自分とは何か?・・ラマナマハルシはこれだけを問い続けなさいと言う・・アタマでは分かっているのだよ・・僕の本質は宇宙を運行している「いのち」と同じものだ太陽の子どもだ金星の兄弟だ銀河の一族だ流れ星のともだちだ・・そんな壮大な自己イメージにうっとりとする反面で・・飽きちゃったな・・三次元世界のなんだか面倒くさくて阿呆くさい繰り返しに飽きちゃったな・・五体満足にのほほんと暮らして朝から何を贅沢なことを言ってるのだよという声も聞こえてくるのだけれど「この声」はかつての頑張り屋さんの亡霊だ(お!まだ生きてたのか)・・そしてもっとよーく観察すると「飽きちゃったな」とホンネのように吐露しているのもまた「考えのなかの考え」であることは間違いない・・つまり僕たちは宿命として「思考」に閉じ込められているのだ・・この思考を丸ごとレットゴーするのだよとoshoは教え、ぼっちをぼっちと思わずにさらっとお出かけするのだよとお花見散歩の途中でryoちゃんはつぶやいた・・ところで今日のテーマは「内なる奇跡」である・・ウチナルキセキは奇跡であるがゆえに不可能は無くて、もしも思考の檻から脱出する方法があるとするならばこの内なる奇跡の力に全ての全てを委ねる以外の方法はございませぬ・・「殿!本日は生憎の花曇りではございますが遅咲きの桜満開の西の丸庭園に宴の準備が整いましてござります〜」「うむ!」・・僕の願いはただ一つ天下太平の時代の殿様に生まれてみたいものだよな自分。